10年後のビジョンを描けるか

よく自己啓発なんかの本では、10年後の自分の姿を具体的に想像してその状態を文章などにして何度も見返せるようにしたり、その時に手に入れておきたいものの写真などをスクラップして毎日見えるところに貼っておく、など書かれている。
要は潜在意識に目標を刷り込んで、そこに向かって適切な選択をできるようにするためだと思う。

だけど、自分にこの方法は向かない。
なぜなら10年後のビジョンを明確に描けることができないからだ。
10年後どころか5年後もよく見えない。

遠い将来どうなっていたいか、そういうビジョンを僕は持っていない。

今はWebデザイナーという職種が天職だと思ってるが、この仕事だって自分が幼い頃はなかった職業だ。
その時代に将来Webというものが存在するなんて想像もつかなかった。

今の変化が激しい世の中で10年後どうなっているのかを想像するのは容易でない。
想像もつかないような変化が訪れる可能性も十分にある。

そんな時代だから僕は遠い未来ではなくてもっと近い未来、2年、3年後を見ている。
その近い未来に自分が成しておきたいことに向けてどのような行動・選択をすれば良いか、それを指針としている。

ちなみに10年後のビジョンを描けないと言ったが、こんな方向に進みたい、といったモヤッとしたものはある。
それは指針のようなもので、今は北か南かくらいの非常に大雑把なものではあるが、その方向に向かう限りは自分の気持ちに従って動けてるのだと思う。

夢の達成の方法、成功の方法なんて一様ではないと思う。
周りや誰かの言葉にとらわれず自分の生きたいように生きること、自分の心に素直に生きることを大切にしたい。

アクト・オブ・キリング

※ネタバレあり

とにかく全てが衝撃的だった。

これが本当に今の時代の映像なのだろうか。
登場する人物の考え方だけでなく、社会全体の常識や考え方が異常に思えた。

人を殺したことを武勇伝のように話す人たち。
殺人者を咎めることなく受け入れる社会。

「殺す」という言葉がリアルであり、
それがテレビのインタビューでも普通に取り交わされてる。
どこの世界の話だ、これ。

彼らにとって「人を殺す」こととはどういうことなのだろう。
僕の中の「人を殺す」の重みとは全く違う。
彼らにとって人を殺すのは、虫を殺すのと同位かも知れない。
どうやって殺したか、だの嬉々として語ることからそう感じてしまう。

宗教戦争なんかでは、
お互いが自分達が正しいと思っていて、それが交わることができずに争いが起こる。
ただ、それぞれには信じる宗教があり自分は正しいという信念の上で行動している。
これは何となく気持ちは理解できる気がする。

でもこの映画に登場する人物にはどうにもその信念が感じられる人が少ない。
自分の私欲とか快楽のために殺人を犯した人が多いような気がしてならない。

狂気ですわ。

しかもみんな一見、いい人そうに見える。
でもきっとどこか頭のネジが外れちゃってるのだろうな。

そんな中アンワルは自分の犯したことの重さに気づき始めたっぽい。
彼が過去を思い出して吐き気をもよおすシーンは、
過去にホントに罪を犯した人でしか出せない表現だろう。
というか、人が過去の罪に向き合うとこんな感じになるのかと知った。

でもこの作品を通じて、ここまで過去に向き合ったのはアンワルだけだろう。
他の人物は距離をおいたまま。
おそらくそれがいいのだと自分達でも感じてるかもしれない。

とは言え、それ以外の殺人者たちが全員過去の罪に向き合うことはないのだろうと思う。
そして強者として弱者から搾取して悠々自適な生活を送ってくのだ。

この作品が捉えたのは大量虐殺の事件のごくごく一部でしか無いと思う。
きっとこの問題はもっと根が深くまだまだ長く尾を引きそうだ。

チョコレートドーナツ

映画「チョコレートドーナツ」を観てきた。

ゲイのカップルとダウン症の子ども。
考えられない組み合わせだけど彼らがすごく幸せそうに見えた。
家族のような同じ時間を共有する関係では、いかに愛情が大事なのかを感じさせられた。

ルディは特にマルコに自分が重なる部分があったんじゃないだろうか。

望んで麻薬常習者の子どもに生まれたのではない。
望んで他の子より知能が劣って生まれたのではない。

誰にでも幸せになる権利はある。

でもそれを得る力がない子どももいる。
その時は大人が手を差し伸べてあげることが必要だ。
だからマルコが二人と同居を始めてからはホントに良かったなと思った。

しかし関係は偏見と言う名のもとにぶち壊される。
彼らがゲイだからという理由で親には不適切とされる。

偏見はよくないという。
それは分かっていても、自分とは違う姿形、感性、性格、…には違う目で見てしまうことは少なからずある。
そういう考え方を全く変えるのはそう簡単なことではない。
まして世論を変えるのは途方も無い話だ。

それでも闘ってる人たちはいる。
自分のありのままの姿で生きていこうと決めた人たちはいる。

そう決心した人たちはホントに強く、
自分達は世間一般という壁がないと生きていけない臆病者なんじゃないかと思う。

自分はそういう人たちに向き合えるだろうか?

少なからずその人の本質を見ようとすることは心がけよう。
一人の人間として、見ること、聞くこと、知ること。
それだけでも自分の中に偏見は薄れるのではないだろうか。

そんなことを考えさせられた夜だった。

この世界には終わりがない

あまりにレベルがかけ離れてると凄さってのは実感できないのだなと思った。

例えば、今自分が凄いなと思うある人がいる。仮にAさんとしよう。
Aさんとは数年前に会ったのだけど、その当初は周りからの評価で
「あ、凄い人なのかな」くらいでいまいちそれがどの程度かピンとこなかった。

ぶっちゃけ、Aさんに比べたら全然劣る人達の方が凄いと思ってた。
その頃の自分から見たらAさんは自分の物差しでは測れないほど飛び抜けてたためまともな評価ができなかったのである。
その頃から多少実力もついてきた今はAさんがいかに凄いか分かる。
と同時に背中の遠さも感じる。

去年は書籍も執筆し、講演も何度か行った。
数年前の自分からしたら高いところまで来たなと思うけど、
ひとつ高いところに来たら実はその上にもステージがあってそこには猛者がごろごろしてて。
きっとまたひとつ高いところに行ったら、また同じように上が見えるのだろう。

また最近は思うところがあってプログラムも勉強してるのだけど、
そっちの世界にも目を向けるとこれまた凄い人たちがいっぱいいて。
自分が今までいた世界で凄いと思ってた人たちもあっちの世界では霞んでしまうんではないかと思うこともある。

小さな制作会社からフリーランスになって大海に出たつもりでいたけど、
大海の広さを知らなかったのかもしれない。

でも自分にとってそれは悲観することではなくて嬉しいことである。
常に目指すものがないと弛れてしまうし、目標があることでモチベーションも継続できる。
とにかく自分がどこまでたどり着けるか分からないけど、
行けるところまで行ってみたいと思う。

ファニーとアレクサンデル

5時間超の大作。
観るのを躊躇したけど、章で分かれてるので短い連続ドラマを観てる感じで、一度見始めれば一気に見れる。

ひとりひとりを細かく描写してそれ故に「エクダール家」というのを表現している。
群像劇なのだが、その中でもアレクサンデルにスポットが当てられる。でも彼にスポットを当てるのなら他の人物のエピソードをそこまで広げる必要あるのかなと。
どれも中途半端な描写な気がするのだけど、そこは敢えて観てるものへ想像の余地を残すためなのか…。

映像や音楽、美術、ところどころ挿入される文学的な話、それがこの作品に優雅さを与えてるのかもしれないが、ちょっと肌に合わなかった。
でもなんかハマるとそれが良くなりそうな、変な中毒性秘めてそう。

主教のキャラが一番印象強い。
特に聖人と呼ばれる人だからこそ、闇がより際立つのだろう。
冷徹な悪魔か。
善と悪、生と死、静と動。
そういう陰と陽全てが含まれた作品。

あとファニーが可愛かった。

若者のすべて

※ネタバレあり

人は自分の理解できないものに対して恐怖を感じる。
そういう意味ではシモーネだけでなくロッコにもまた狂気を感じた。

シモーネはほんとに人間のクズだ。
けどそうさせてしまった原因のひとつはチーロの言うとおりロッソにもある。
と言うかチーロがこの兄弟の中では一番まともだと思う。

愛にはいろいろな種類がある。
恋人への愛、夫婦愛、子どもへの愛、親への愛、兄弟愛…。
自己愛もそのひとつだ。
で、どれも突出しすぎるのは危険である。
ちょうどよくが良いのだけど、いろんな人と関わり、それぞれがそれぞれの愛を持ってる中でバランスを保つのもまた難しいことなのかなと思う。

この兄弟(家族)は少し極端な例かも知れないけど、似たようなケースは世にたくあさんあるだろう。

しかしこんな多感な時期をこんな家庭で過ごしてるルーカがこれからまともに育つのかが心配になってしまった。

2014年

年が明けました。
年始ということで実家に帰り親戚一同で集まったり、正月らしく過ごしたけれどもそれ以外は平常運転。
年が変わったから心機一転とか言うけれども、結局暦の上でいろいろな区切りがあるだけで、一日そのものというのは変わらない。
大事な事は、いつからとか、これからとかではなく一日一日を積み重ねていくこと。
なので暦とか関係なく毎日を積み重ねて行こうと思う。

あとは年のせいか生活のペースが乱れると戻すのに時間がかかるようになってきたから、
極力普段と変わらない生活を送ることを意識している。

アンコール!!

※ネタバレあり息子や周りの人と素直に接することができず、心を開けるのは妻だけという頑固者のアーサー。

そんな夫を理解し明るく献身的に寄り添う妻のマリオン。
その姿勢は最後の最後まで変わらない。ほんとうに素敵な妻だと思う。
彼女が歌ったtrue colorsほど心に刺さるtrue colorsは聴けないだろう。

その歌を聞いた後のアーサーの行動もすごいよく理解できる。
ああいう時にどんな顔をしたら良いのか分からないのだろう。
そんな性格だからずっと変わることなく生きてきたけど、
マリオンの死をきっかけに少しずつ変わろうとする。
最初はどう振る舞っていいか分からず、笑顔もぎこちないのだけど
少しずつ笑顔も自然になってくのがいい。

人が変わるってのはそう簡単なことでなく、
うまくいかないことがあり挫折しそうになった時もあるけどそれでもアーサーは一歩を踏み出した。
最終的に彼がそこまで行動できたのも全て愛ゆえにだろう。

ここ最近見た映画の中で一番泣いた。
何度も涙腺崩壊した。

家族の愛や夫婦愛、何かに踏み出す勇気、そういったものを感じさせてくれる作品だ。

或る夜の出来事

※ネタバレあり

世間知らずの富豪のお嬢様とワイルドで破天荒な男が出会っちゃったら、
これは恋に落ちる展開でしょう。

その予想裏切らずは恋に落ちるのだけど、
我慢できず自ら告っちゃうあたりホント自由奔放だなと。
で、そんな彼女とはうまくいかないと理性で判断するあたり、
はリアリストだなと。

そんなリアリストなも結局恋に落ちちゃうのだけど。
まあ、あんな女性と一緒にいたらそうなるのも無理もない。

そんなんでうまく行くかと思いきやひと波乱あって、
で最後にハッピーエンドという楽しく安心してれるラブロマンス作品。

Movable TypeからWordPressへ移行しました

Movable TypeとWordPress両方使えたほうが良いかなと思ってて両方使ってたのですが、両方を熟すのがしんどくなってきたのでこちらのブログもMovable TypeからWordPressに変更。
ざっとメモです。

下記のサイトを参考しました。

URLを変えずにMovable TypeからWordPressに移行してみた。 | それだよ。

今回こちらの環境はMovable Type5.1、WordPress3.8ですが基本的には上記のページの方法でいけます。

Movable Typeからのエクスポート、WordPressへのインポートは特に問題なく簡単にできます。一番の問題はURLをそのまま引き継げるか、でしょう。

まあ、大したアクセスもないブログなので引き継げなかったとしても良いのですが、そんなに手間でもないのでやっておきました。

で、これを機に今までブログを”ドメイン/blog”以下で展開してたのを、ドメイン直下に変更することにしました。

今までのURL
https://o-hiro.net/blog/2013/12/entry-basename.html

新しいURL
https://o-hiro.net/2013/12/entry-basename

にします。

まず、WordPressの管理画面の設定→パーマリンク設定をカスタム構造にして
/%year%/%monthnum%/%postname%
にします。

パーマリンク設定_‹_素晴らしき哉、人生!_—_WordPress

次に.htaccessにリダイレクトを書きます。

RewriteEngine On
RewriteRule ^blog/(.*)post-(.*).html$ https://o-hiro.net/$1post_$2 [R=301,L]
RewriteRule ^blog/(.*).html$ https://o-hiro.net/$1 [R=301,L]

RewiteRuteの一行目はMovable Tyepのpost-999.htmlがWordPressにインポートした時post_999.htmlに変わってしまうのでそれの対応です。
RewriteRuleは一行で書けそうだけど分からんかった…。

以上でリダイレクトを使ってURLを殺さずに移行することができました。

 

デザインとか移行前のブログ以外のページとかも何とかしなきゃならんのだけど、それは追々。

雑記・戯言・備忘録。気楽にやってます。気が向いたら更新。